日本文化の二重構造3


以前書いた「日本文化の二重構造について」は私の単なる思いこみかと思っていたが、それに関するいくつかの書籍を発見したので、紹介したいと思う。

私が、この結論に達したのは、和歌山に旅行中のことである。白浜の温泉に入って考えていたときのことであった。紀州の山奥に隠れた上皇を、和歌によって、呼び出すという伝説の看板を見ていたときだった。言葉とはそんなに重要なのか。何か呪文のような計り知れない意味と、力が、その文字自体に秘められているのかと改めて感じいった後、ふと思い浮かんだ。かつては日本の中に、文章に書いたものをよりどころとするチームと、話し言葉による言い伝えをよりどころとするチームとが有ったのでないのか。そして、常に前者が勝利を収めてきた日本の歴史。しかし両方がうまく共存してきたのである。

このことをうまく伝えている本がある。岡田英弘氏の「日本史の誕生」である。目から鱗の歴史観、そして、日本建国の秘密。ここまで書いちゃって良いんでしょうかという感じである。併せて、少し古いけど「倭国の時代」という本も面白い。絶版になっていたが、最近復刻版が出た。世界史の視点から日本の建国の謎に迫る。と腰巻きの宣伝に書かれている。

次に鶴見和子さんの「漂白と定住と」。この中で柳田国男が、常民という新語を作り出し、文章で物事を考えない人種というのを想定したことが書かれてある。文章で物事を理解しようとする彼には、文字を持たずに文化を継承していく人々が居ることが信じがたかったのではないのかなあ。

前述の紀州つながりで読んだ中上健次「紀州 木の国・根の国物語」。昭和の文豪中上健次が書き言葉と、話言葉の現実の中をいったり来たりしながら、悩み、苦しみ、言葉を失っていく様がよくつづられている。紀州は敗者の吹きだまりとはよく言ったものである。そこに渦巻く怨念に我々は強くひかれるのである。そして多くのものを教えられると思う。伊勢神宮に着いた彼は、突如、直感する。天皇がコトノハ、文字という言葉によってこの国を治めている。と。天地の分かれる創世記の時代からコトノハを持っていて、光を光と、闇を闇とコトノハを与えたことによって、すべてにおいて自信を持っていると。

もう一冊はラス・カサス「インディアス破壊を弾劾する簡略な陳述」だ。この本のコメントは差し控えよう。すこぶる怖い。とだけ言っておこう。

建築を、法律で縛り付けて、日本の国から大工職人を排除しようとする動きがますます進んでいるような気がする。たくさんの職人が元気を無くしていて、しょんぼりしているのがとても悲しい今日この頃である。

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