昭和47年大萩台風災害について 茗荷村通信3


旧大萩大萩台風災害について

昭和47年にその災害は起こりました。平成生まれの皆さんにはピンと来ないかもしれません。西暦で言うと1972年です。今から43年前になります。もしかすると、皆さんのお父さんお母さんも生まれてないかもしれない、家が壊れるような災害は、ここ愛東ではそれから後、起こっていないので、実感はないかもしれませんね。最近のニュースを見ていると、全国あちこちで集中豪雨が起こっています。そんな時代なのでどこに住んでいても安心はできないと思います。山崩れの起こったその日は土曜日でした。学校からの帰り、午後から激しくなった雨は、たたきつけるように降り、傘を差していても何の意味も無くずぶ濡れになるほどでした。夕暮れになってから雨だけでなく風も吹き始めました。私の家では7時頃、裏に柿の木が折れて、屋根に突き刺さり、台所が水浸しになりました。そうこうしているうちに、電気が切れ、停電しました。ろうそくを付けてしばらく過ごしましたが、テレビもつかず、ご飯も食べ終え、もうすることがないので、寝ることにしました。布団に入ったそのとき、大きな音がしました。「ぶぉーっ、ぶぉー」と言ううめくような、あるいは、車のエンジンを思いっきり吹かしたような音です。雨で車がぬかるみにはまって、困っているな。ぐらいにしか思っていませんでした。台風なので、雨戸も鍵もしっかり閉めて寝ていましたから、外で何が起こっているのか、さっぱりわからない状態でした。すると8時半頃になって、玄関の戸を誰かたたく人があります。「開けてくれ」「山が崩れた」「大変や」開けると親戚のおじさん家族でした。ずぶぬれでにげてきていました。さっきの大きな音は山津波の音だったのです。おじさんの話によると、「石がごろごろ転がってきたので外に出て、上を見たら、山の麓の家がなかった。次は家や。」と震えながらしゃべっていました。私も怖かったので、なんどもトイレに行きました。とにかく夜が明けるまで待機しようと言うことになり再び床につきました。でもなかなか寝付けません。夜10時頃になって、急に雨がやみました。風もやんだので、外に出てみました。すると、外はすごく静かで、少し不気味でした。空を見上げるときれいな星空でした。現場を見に行こうと駆けつけましたが、消防団の人と途中で会い止められました。危ないから行くなと。しばらくするとまた雨が降り出しました。台風の目だったようです。台風がまともに、村の上を通ったようです。

台風情報によると、雨は300ミリ以上降ったそうです。次の日、外に出てみると、現場はひどい惨状でした。どこから出てきたのかわからないくらいの大量の土砂があたりを埋め尽くしていました。 結局全壊したのは5件でした。奇跡的にみんな逃げて無事でした。土砂が、家の天井まで達していました。一番ひどかった家は、泥が家をすくい上げ屋根がとなりの敷地まで飛んでいました。それでも誰もケガせずに逃げられたのは、いつか崩れてくるかもしれないという危機感があったからかもしれません。実は崩れるかもしれないというのはそれから10年ぐらい前から噂されていました。

ここ百済寺甲町の村の裏山は、神社の管轄で、古くから木を切っては行けない山となっていました。木を切ったら崩れることを、皆が知っていたのでしょう。何百年のたったその山には、今でも県下最大とも言われる、ツクバネカシの木が生えています。崩れたのはそのすぐとなりの植林山でした。崩れる10年ほど前、当時私は小学生でしたが、その山を勝手に荒らしたやつがいると、大人達が心配していたのを聞いたことがあります。「神社の裏山のてっぺんのあたりの石を盗んだものがおる。その石を出すのに、近くの木も切った。それから山のてっぺんに地割れができた。山の神さんが怒ってる。いつか山が崩れるぞ。」というものです。真偽のほどはともかく、山の地割れができているのは本当だったようです。そこに、300㎜の雨が降って台風の風が生えている木々を思い切り揺すったため、地面がドロをかき混ぜ、液体状になったのでしょう。斜面を滑って一気に押し寄せたのです。

危機一髪で逃げたそのうちの家の人に聞いたら、後、数秒遅かったら巻き込まれていたとおっしゃっていました。夜、停電になったのでろうそくを付けて、家族で台所のちゃぶ台を囲んでいたそうです。そしたら裏口の方で、がらがらと音がし始めたので、そちらに懐中電灯を照らすと、ずずっ、ずずっと、キッチンの流し台が前に押し出されてきたそうです。あかん!崩れてきた!と誰かが叫びました。その瞬間、みんな玄関向かって走り出していました。玄関を出る時、ろうそくを消し忘れたのに気がついて、後ろを振り返ったそうです。そしたら、土砂がずるずると押し出されてきて、テーブルの上のろうそくに覆い被さっていくところでした。「あかん!はよ逃げよ!」後は雨の中を夢中で走ったそうです。30メートルほど走ったところでもう一度振り返ると、もう家の屋根は流されて見えなかったと言うことです。話を聞いてぞっとしました。それでもみんな逃げられたのは、普段から、いつか崩れるかもしれないと注意していたからだと思います。大きな音を聞いても、車がぬかるみにはまったと、のんきに構えていた私とは大きな違いでした。実はつぶれたその家は建ったばかりの新築でした。建てる時も、崩れるかもしれないので山の麓は止めようかどうしようか、だいぶ、迷われたそうであります。しかし先祖の土地は守りたいと、そこに建てられたと聞きます。とても大きく、頑丈だったその家は、崩れた土砂を、そこで食い止め、そこから下の家を守ったとも考えられ、災害復旧はその日から、村総出で行われました。

台風の爪痕は凄まじく、道路はあちこちで分断され、川のないところに川ができ、土砂や石ころがあちこちに散乱し、崩れたところは30数カ所、道が通れるまで一ヶ月以上かかりました。今日この頃のように、異常気象で、集中豪雨が降ったら、どんなところでも崩れるし、浸水する可能性はあります。300ミリも降ったら、川のないところに川ができるのですから。どこに住んでいても安心はできないでしょう。そんなときはいち早く逃げることです。一目散に逃げないと命まで失う可能性があります。

皆さんは東北の震災の大川小学校の話を聞いたことがありますか。私は向こうに仕事に行って助かった人の友達から話を聞きました。その人は小学校の先生だったのですが、津波がきた時、いち早く逃げようと子供を連れて山の方へ逃げようとしたのですが校長先生から止められました。校長先生はみんなが順序良く避難できるようにと、生徒を整列させていました。実はその先生、もっと下流の学校から赴任してきた先生だったのです。そこの学校では毎年、津波訓練をしていたそうです。津波が来たらとにかくすぐに逃げろと。しかし大川小学校はずっと上流にあったので、訓練はしていませんでした。危機感がなかったのです。校長先生は安全に全員を避難させるつもりだったのでしょう。いざ移動しようとした時には、川を伝って津波が逃げようとした方向から襲いかかりました。その先生、とっさに山に走り、後に続いた何人かの子供とともに助かりました。しかし、ほとんどの子供はあっという間に津波に巻き込まれてしまいました。悲劇です。悔やんでも悔やみきれません。訓練をしていたもっと下流の子供は、全員逃げて無事でした。日ごろから、訓練すること、想像すること。学習することがいかに大事か。というお話です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

Top