先人からのメーセージ 茗荷村通信原稿4


炭焼き先人からのメーセージ。

 「大萩わな、昔、大萩ケンゆうてな。一国の独立圏として認められとったんや。」

茗荷村初代村長辻仁一さんを囲んで話を聞いたのは、一九九〇年のこと、今からもう二七年も前だ。茗荷村の村長の前に、旧愛東村の村長もした人だけあって、普段は理路整然、話し上手な人なのだが、この日ばかりはとても興奮気味だった。それもそのはず、夕方七時からの歓談に、待ちきれず朝から、飲まれていたらしい。会場に着かれた頃には一人で立てないぐらいできあがっておられた。

「百済寺わな。聖徳太子の命で最初建った時には、湯屋から北坂を通って上ったところが本堂、そこから又真っ直ぐ大峠を越えて、大萩に行くのがほんまの百済寺や。」

「それから、大峠、寺辻、西ヶ峰、ソノエ、ソコビラ、ツツエ、いくつも寺があった。明治二年までは、安産の神さんゆうて、お参りが絶えなかった。西ヶ峰の麓には茶店があって、一年中、賑おうとった。ホンで肝心の百済寺は全然繁盛せんかったもんやさかい、明治になってから下に降ろしたゆうことや。」

お酒の所為もあってか、機関銃のようにノンストップで言葉が飛び出す氏であったが、聞いていた我が胞は、郷土を愛するあまりの大萩贔屓かと、話半分に聞いていた。

仁一さん、それを証明するモノはありますかと聞くと、「大萩記」という文章に書いてある、ワシは読めんが。と答えられた。「大萩記」の存在は、神社に残っていると以前から聞いていて、高校の先生や、大学の先生が何度も調べ、最近では町史編纂の教授なども確認に来られた。その都度、内容について聞いてみたりしたのだが、大して資料になることは書いてなかったと、報告を受けている。がっかりして、興味も失せ、もう忘れかけていたところ、先日、白鬚神社の方で、現代文に解読していただき、中身を知る好機を得た。内容的には、仁一翁の言い分を粗々、裏付けるモノだった。驚いたことに。先祖からのメッセージは、理不尽な百済寺の要求から堪え忍ぶ村民の窮状が、ダイレクトに伝わってくる文章であった。概要は、百済寺再建に当たって寺が切ろうとした神社の木を守ろうとした為、諍いが起こった。そのため、大萩は主神を八幡から白鬚に換え、大慈寺も天台から臨済宗に宗派替えを行ってまで抵抗した。ということが書いてあった。正史には、残らぬかもしれないが当時の人々が信じるものの為一生懸命に生きようとしたコトが解る。

晩年「敗者の古代史」を書かれた歴史学者の森浩一先生は、様々な地域の隠された歴史を掘り起こすことは、その地域の人に勇気を与える。と説いておられる。現在を生きてる者にはたわいない出来事でも、それが将来の子孫や、後継者にどれほどの勇気と誇りを与えるか解らない。負の歴史であっても人の手にゆだねず、自らの手で何か記して、残しておくべきではないかと思う。

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