惟高親王


茗荷村通信 惟喬親王
小学校の頃、学校の帰り道はいつも神社の横を通って帰っていた。神社の境内でその日の風呂の焚き付けを拾うためである。その時いつも見て気になっていたものがある。それは神社の水屋に掛けてあった絵馬だ。図柄は馬に乗って横笛を吹く貴人とそれを後ろから覗く鎧武者という構図である。変な絵である。貴人は馬に跨がらずに不安定な格好で横乗りしていた。その後、下の大萩に持って降りて、環境が変わったのか今は、朽ち果てて何の絵かわからなくなってしまっている。 私見だが、あれは惟喬親王と、在原業平ではないかと想像している。業平にとっては親戚で、妻のいとこの親王が皇位継承権に破れて、小野の里に隠棲し、その後出家してしまった。哀れに思った左馬頭(軍事大臣)の業平が心配して、都から親王の様子を覗いに来た。という場面である。出典は「伊勢物語」の一節にあると思われる。
今では惟喬親王ゆかりの木地師の里といえば永源寺で、大萩とはそんなに関連がないようにも思えるが、蛭谷との境にあった筒井神社跡は大萩にとっても身近な存在だった。蛭谷とも峠一つを隔てた位置で徒歩三〇分程度の距離なので、結構交流もあったと思う。
それよりも、小野の伝説がなにゆえ永源寺に移植されたのか、その方がもっと謎である。
蛭谷に残る「氏子狩り帳」が正保四年(一六四七年)から始まっているのを考えると、その頃に伝説は完成したのかと思われる。そこで一致するのが白鬚神社の旧本社が建てられた時期である。(一六五二年)「大萩記」が書き記されたのもこの頃で、この時代はこのあたりにとってなかなか面白い時期だったと想像される。信長が百済寺を焼き討ちにし、近江国を席巻した後、長い間押さえつけられていた僧兵や佐々木氏が居なくなって、ある種の開放感があったと思われる。それまでは世を忍んで隠遁生活を余儀なくされていた大萩の住民が、武士階級とも直接文章によって契約を結び、約束を守れば認められるという充実した時代があったのではないだろうか。そこでできた自立心が再び暗黒の時代が来ないよう「大萩記」を書き残させたという気がする。
混沌とした中から江戸時代という統制された社会に移行する中で、いろいろな模索と葛藤があったのではないかと思うと何か歴史がとても身近に感じられる。
ちなみに、小野氏といえば一番有名なの小野妹子であろう。彼は、随の皇帝に日出ずる国として国際的に日本を知らしめた人物である。その都長安からまっすぐ東に向かったところに、小野の里があり、そこから琵琶湖を挟んで、まっすぐ東へ進むと百済寺、大萩奥の院、そして蛭谷へとつながっていく。日の出を拝むという神社の神髄から云うと、小野氏の子孫がここに到達したのは必然かもしれない。
もう一つ付記するなら、江戸のはじめ、上皇として七〇年に渡って君臨し、朝廷像を模索した後水尾天皇IMG_2978も同じ時代の人である。幕府に統制を受け、行動や影響力を極限まで制限された朝廷は、最後の切り札として、戸籍に属さない山の民を頼りにしたのではないだろうか。水尾とは清和天皇(惟喬親王の弟)の別名であり、前述の「伊勢物語」も、自ら研究し解説本を出すほどの入れ込みようだったと聞く。何れにせよ、人の意志というものが、長きに渡って影響を及ぼし、時代を超えて結実する醍醐味は素晴らしい。今の時代にも生かしたいものである。

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