物心自立


茗荷村通信 「物心自立」

近頃、なんだかしっくりこないことがある。それは家をリフォームしたり、建て替えた

りするとき、発生するゴミの処分である。ゴミと云ってもそれまで使っていた家財道具が

主であり、まだまだ使えるモノも多くある。つまり捨てるのは惜しい限りなのである。も

ったいないと云えば、家具だけでなく、家そのものもそうでまだ使えるのに壊してしまう

のが実情である。特に最近は、耐震基準が変わり、基準に満たない昭和五五年以前の家は

壊しなさいと云うのが国の指針でもある。昭和四〇年以前の家なら、殆どの材料が自然素

材で出来て居るので、再利用も可であり、放置しても自然に帰っていくのでゴミにならな

くて済む。昭和四〇年は前の東京オリンピックの開催された次の年で、一旦不況になるの

だが、国は大量生産、大量消費奨励の政策によって乗り越えた。結果家もそのあおりを受

けたといえる。つまり安く大量につくため自然素材に取って代わったのは石油を原料とし

た合成樹脂で、分解もしなければ腐りもしないので五〇年前のものでもしっかりと形が残

っている。それでいて、使おうとすると接着材が脆くなっていてすぐ壊れ再生が利かない

のでゴミになってしまうという仕組みである。

かく言う私も大量のゴミとなる物の中で生活しているのだが、大量消費文化の申し子の

ように育ってしまった為モノへの執着はなかなか手強い。 その昔、モノへの呪縛から逃

れるために「書を捨てて町に出る。」とか「ドロップアウトして農業をやる。」とか云う

のがかっこいい時代があった。百姓にもならず、町にも出ないで今日に至るのだが、若い

頃、ささやかな抵抗で田舎発信のミニコミ誌を作っていたことがある。アンチモノ崇拝、

アンチカタログ雑誌がメインテーマであった。都会に売られてるブランド品は知っている

けれど、自分の足下の花の名前も知らないのはおかしいのではないかと。 そんなことを考

えている頃、茗荷村との出会いがあった。開村後、テレビや、新聞の記事に惹かれて茗荷

村に来る人は、ドロップアウトした様な人ばかり。ちょっと憧れもあり、ひとり面白がっ

て見ていたが、それでも田村先生の「物心自立」の言葉はドキンとした。心はモノから自

立するべきである。

「モノに心が当たって、事が起きる。」と、おっしゃったのはかの有名な南方熊楠先生

で元来、人の心は物に影響受けるように出来ている。南方先生の生きた明治大正の頃は、

人だけでなく、物の方も今よりしっかりと自立していたのだろう。偽物だらけの現代では

モノに影響されては、あっちへふらふら、こっちへヘラヘラ、心の落ち着くところがない

。その心の隙間を埋めるためについモノを買ってしまう。そればかりか、いつの間にかマ山

スコミやインターネットに洗脳されて、商品を買わずには居れない状況に追い込まれてし

まう事になるのだ。

そんなときは一旦、世の中にあふれる物々から離れて、自然の中に身を置いてみるのも

いいかと思う。大萩茗荷村はそういう場所ではなかったかなと、今更ながら思う。

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