桃源郷


茗荷村通信 「桃源郷」

「まるでここは桃源郷ですね。」楠亀さんに案内されて、その地を訪れたのは、二十世

紀も終わりに近い一九九九年の三月であった。 話を聞いていたのはその前の年であった

が、雪に埋もれていたため、春を待っての訪問である。車を止めたところから村に向かっ

て坂を歩いていく。傍らには雪解け水が側溝をチョロチョロ流れている。溝の端からはネ

コヤナギやフキノトウの新芽らしきものが覗いている。廃村が近い村には、神社や寺の建

物も残っており、人はいないが人の気配があちこちにあり、冬、雪に埋もれる山村育ちの

私にとっては、春の訪れには格別の思いがある。目的の家はその坂道の中腹にあった。古

い家とはいえ棟が上がってから45年ばかりで、古民家としては新しい。屋根も瓦ぶき、二

階の棟高もそこそこある。(昭和30年代この地方では、二階は天井に手が届くほどの高さ

が主流であった。)

中に入って驚いた、昭和の時代のままで時が止まったような空間がそこにあった。そのこ

ろ何棟か古民家移築を手掛けていた後だったので、余計にそう思ったのかもしれないが、

移築するのに理想的なたたずまいであると、感動さえ覚えたのである。

「モノに心が当たって、コトが起きる。」と前回書いたが、この時ばかりは物を思い描い

た時点でコトは始まっているとさえ思われた。「描かない夢は叶わない。」といわれるそ

れである。というのは、このあたりで屋根の小屋組みの構造材に使われる赤松は、良材で

も50年ぐらいでどうしても、虫がつく。虫害で、あっという間にボロボロになってしまっ

た例を数多く見てきていた所為もあり、それまでそれを防ぐために屋内を囲炉裏やかまど

の煙でいぶしていたのではあるが、直接火をたかなくなって、50年ほどが経とうとしてい

た時期でもあったのである。何処かにそんな家がないかと何年も前から漠然と探していた

からだ。しかも、昭和30年は住宅に電気設備が入る前で、大和時代から1500年近く、挫折

することなく発展してきた日本の木造民家の最後の完成形ともいえる。さらに、奇しくも

私の生まれたころで、その家は自分の分身のようにも感じてしまった。

解体を始めて分かったのだが、その村は入谷といい、霊仙山に上る入り口として栄え、

山仕事の剛力衆の供給を生業としていた。ところが昭和29年夏、村の入り口の住宅で火事

があり、すり鉢状の村の形状が災いして、茅葺の屋根に次々類焼、寺を残してすべての家

が燃えてしまうという不幸に見舞われた。今移築しようとする家は、その年の12月に棟を

上げたと棟札に書かれていた。わずか半年足らずで。驚異的である。材料もほとんど生木

で、乾燥している間もなかったのであろう、ひねれて曲がって悲しいくらいに、荒れてい

た。それでも、携わった大工職人の工夫が随所に見られ、しっかりとした木組みであった

。出来上がったとき、火事で打ちひしがれた住民にどれほどの勇気を与えたであろうか。

そのエネルギーは、解体した我々にもダイレクトに伝わってきた。京都で修業した、若い

大工さんが心血を注いで作ったらしい。数年後には、村中が新築し、非常に短期間で元の

村に戻ったらしい。素晴らしいことである。村中が同じころに建てられた建物であふれて

いる。その後、復興のためいろいろ尽力された記録も残っていたが、時代も変わり今世紀

に入ってからはほぼ、廃村状態になってしまったのは悲しい限りである。解体作業には、

我々業者だけでなく、茗荷村のみんなが関わることができたのもよかった。人手が足りな

かったので、毎日10人以上の村民仲間を連れて、鶴田さんや前田さんが手伝ってくれた

。「流汗同労」の精神が実現した思いである。しかし、そんないわれのある大事な家は、

今茗荷村で、第二の家生を生きている。古川地先にある「かどや」がそれである。古川と

いう500年前大萩集落が始まった地点で今また、山の茗荷村復興のシンボルとして毎月、

茗荷村建設委員会がそこで開かれている。入谷

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