茗荷村通信「流汗同労」


流汗同労とシンクロニシティ

  幕末、江戸時代の終わりに日本に来た植物収集業の英国人フォーチュンは、当時の日本のお寺の行事を見て述懐している。

・・・・僧侶の読経が始まると、そこに集まっていた参拝者がそれに併せて「南無、、南無。」と唱え始める。敬虔な面持ちで、一時間ほど続いた後、静かになったので、おつとめが終了したかと思ったら、急に騒がしい声がする。好奇心を持ってのぞきに行くと、今し方、おつとめをしていた同じ部屋で同じ会衆が今度は酒を飲んでいる。辺り構わぬ大きな笑い声や陽気な騒ぎから察して幾分酔っているらしい。その時外にいた私を見つけると、皆が歓声を上げて取り巻き、会場に引っ張り込まれた・・・・。

  日本人の我々にとっては、見慣れた光景で当時の様子が手に取るように思い浮かぶ。宗教観の違う彼らにはよほど珍しかったのだろう。一人一人が神と対峙し祈るクリスチャンの手法とはあまりにかけ離れていたに違いない。他の外国人も「宗教は民衆の精神的欲求を満足させる物になり得ていない。日本人は宗教そのものには関心がなく、教養のある人ほど、本当は仏教と僧侶を軽蔑さえしている。」と手厳しい。

  彼らの印象が強く伝わっていてなのか、我々は外国の人から宗教について訊かれた場合、「無宗教です。」と、つい答えたりすることが多い。しかし、それはすこし違っていて我々がそうだと思っていないことが、案外信仰だったりするのではないだろうか。お経を唱えたり、食事をしたり、作業を一緒にしたりするときに人と人とが心を通じ合わせ、心の奥底で共鳴するときに起こる興奮状態が我々の宗教観と密接に関わっているような気がする。江戸時代の人は、狭い地域の中で井戸水も共同で使い、洗濯、食事、仕事等、共働で生活することが多かったと思われ、普段から皆の心の周波数が同期することが多かったのではないだろうか。そこに異邦人が来ると、一斉に周波数を合わそうと、質問攻めにしたり、体に触ったりと、友好を深めたに違いない。訪れるの語源は「音ズレる。」らしいから。そこまで書いて、思わず、映画トイストーリーに出てくるキャラクター「エイリアンたち」を思い出した。「みんな心が通じている。」明治の外国人に我々はあんな風に映っていたかもしれない。

さて、人はそれぞれ生まれながらに異なる周波数を持っていて、其の微細な振動こそが生命の源泉だという説がある。人と人が出会って、お互い好きになるというのも近い周波数同士の共鳴というわけだ。共鳴しないと、あの人とは馬が合わない等と云って嫌ったりする。ネットで検索しても、そういう類いの音楽などがやたら多い。安らぐ周波数、愛を感じる周波数、眠りにつく周波数など、日々研究は進んでいるようだ。それで心を操作されるのは怖い限りではあるが、純粋に、心と心をシンクロさせるのは実に心地よい。

 少し前にヒットした曲に「シンクロニシティ」というのがあったがこれは、ユングが提唱した心理学用語である。偶然の一致が宗教に近づくのか、単なる共鳴現象と思うのかは、捉える方の感じ方の分かれ目である。心地よいからと云って、むやみに共鳴して人に利用されないように注意が必要である。とある団体の「霊感商法」なるモノはこれをうまく利用したやり口である。

 本題から大分離れてしまったが、流汗同労という言葉には、今まで一般の日本人が培ってきた労働を共働することによって、喜びに変えてきた宗教観があふれていると思う。茗荷村では、なおかつ、障害を持った子らと共働できる。嘘をつかない、人をだまさない、真面目に生きる。そんな彼らの美しい心と共鳴する度、心が洗われ、安らぎを覚える。そういうのがこの村の原点になっていると思う。流汗同労流汗同労2

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