ドイツ通信30「ブラームス」


2009071904 2009071905 2009071906 2009071907やっぱり“本場”?クラシックーーブラームス

 

 ブレーメンで音楽留学をしているアジア人をよく見かけます。韓国や中国からの学生が圧倒的に多いようですが。所謂“クラシック”を外国で学ぶなら・・ドイツやオーストリアに・・という図式です。

 

 しかし私自身、ブレーメンに暮らし、“クラシック”と隣り合わせの生活をしているか・・というと全くそんなことはありません。ここが、バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)など音楽の巨匠を排出したドイツとは思えないくらい、縁がありません。しかし、この2人と並んで、ドイツ音楽における「三大B」といわれる“ブラームス”が、ブレーメンとステキな接点を持っていたので紹介したいと思います。

 

 ブラームスの「Ein Deutsches Requiem」(ドイツ・レクイエム)はご存知でしょうか?(私はあんまりピンと来ませんが(汗))。このドイツ・レクイエムがブレーメンで初演され、その成功をきっかけに、ブラームスはドイツを代表する作曲家の地位を確立していったのだそうです。

 

 レクイエムとは、オーケストラと合唱、およびソプラノ・バリトンの独唱による宗教曲。日本語では「鎮魂歌」と訳されます。カトリック教会におけるミサ曲のことです。しかし、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、ルター訳のドイツ語聖書の中から歌詞を取っている、つまりプロテスタントの考え方が盛り込まれた楽曲という事です。だから、特に礼典用に作曲されたというよりは、純粋に演奏するための作だといえるそうです。

 

 ブレーメンでの初演は1868年4月10日(イースター中の“Karfreitag”キリストの受難日にあたる)。この初演にいたるまでには、ブラームス自身の“性格”も含み、様々な偶然が重なりました。

 1866年にチューリッヒで曲を完成させたブラームス。お披露目の機会を探していました。そして1867年、交遊のある人たちに曲を紹介するため、友人のアルベルト・H・ディートリッヒに楽譜の原本を送りました。“オフレコに”と厳重に言い渡して・・。しかし、ディートリッヒはこの曲にいたく心を動かされ、ブラームスの忠告を顧みず、ブレーメン大聖堂のオルガニストであったカール・ラインターラーに渡してしまいました。

 

 しばらくの後、こういう事態になっていることを知らないブラームスは、楽譜をもう一度手元に戻したいと思い、バイオリニストのヨセフ・ヨアヒムに「返して」と迫ります。

 

「??」。ですね。

 

 ブラームスには忘れっぽいところがありました。自分が楽譜を渡したのが誰であったか、すっかり記憶にありませんでした。彼の楽譜を手にした事などないにもかかわらず、楽譜を紛失したと、疑いをかけられたヨアヒムでしたが、ブラームスの新曲のことは聞いており、幸いにもヨアヒムの力により、楽譜の行方は明らかになったのでした。

 

 ブラームスとラインターラーの間で交わされた手紙が残っており、それによると、(この楽譜騒動の経緯から)最初のやりとりは険悪だったようですが、後に友好的になり、ブレーメンでの初演のためにお互いに尽力したことが伺えます。この一連の騒動がなければ、「ドイツ・レクイエム」の初演がブレーメンで行われることはなかったかもしれません。

 

 ちなみに、この初演はブラームス自らの指揮で演奏され、大成功を収めまたということです。

 

 偉大な作曲家の裏事情・・。なかなか興味深いですね。

 

 

 

ブレーメン大聖堂の歴史はブレーメンの歴史そのものと深く関わっています。少しずつでも紹介できたらな、と考えています。

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