能の本


 

全部で何百冊。

全部で何百冊。

能面用タンス中身はない

能面用タンス中身はない

引き出しを直す

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イタチの巣があるととある住宅の天井を直しに行った。ついでに開かなくなったタンスを直していたら、大量のお能の本にであった。又そのタンスは、どうも、能面が入っていたらしい。家人に聞くと、日野の商家からもらってきたと言う。日野の商人いくら裕福といえど、大正時代に、こんな収集をしていたとは、驚くばかりである。

お能や文楽と言えば、一部の愛好者に支えられている特別なモノという感じがあるが、かつてはそうでなかったのかもしれない。

先日、大阪で文楽を観てきたという増井憲一先生に出会った。先生は、近松の作品にも精通されているので、内容はよくわかったとのことだったが、そうでない人が見たら、その芸術性は理解しがたいのではないかと話されていた。と言うより、何をやっているのかわからないかもしれないとも。

それに関しては、劇作家内藤 裕敬氏も、18日付けの新聞で義に殉じる悲劇と美意識のテーマ自体、大衆とともにあるとは言い難いと評している。完成された芸術として、古典芸能的な文化財として残していくのか。それとも、今一度、現代的な可能性に未来を託すのか、選択を迫られている。

かつては淡路島一島だけでも、40を超す能を演ずる劇団があったと聞くと、昔は一般の人が、名場面の名セリフを暗謡していたというのもよくわかる気がする。つまり、伝統芸能といわれるものも、長く続いてきたのは、それを支える裾野が大きく広がっていたと言うことだ。

相撲にしても、各地方に数限りなく小さな相撲会があり、日常的に力比べをしていた。その最高峰として、大相撲があったのだ。そういう裾野を無視して、頂点だけを残そうと企てても、難しいのではないか。

これは、大工にもいえることで、地方の小さな工務店や、職人などの裾野がなくなれば、宮大工や、名工も、残っていかないだろうと思う。

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