茗荷村通信夏号原稿1


IMG_0666先日、村を案内する機会があった。観光協会が主催する町歩きイベントの資料作りが目的だ。都会から田舎を訪れる人のために、ガイド付きで町を案内するという。歩いて山まで上っていく道中、飽きないようにいろいろな情報が必要らしい。茗荷村のことを話しながら車で上ったのだが、出てくる地名は寺に関するものが多い。西が峰にあった百済寺の奥の院。もう150年も前に寺はなくなっているにもかかわらず、「不動堂」という地名はそのまま残っている。寺辻、地蔵ン谷、坊坂、念念淵など寺に因んだ名前は探せばほかにもたくさんあるだろう。
地名は地形から名がついたものが多いようだが、事件や出来事、それに纏わるエピソードが由来のものもあり、興味深い地名はこちらに多い。例えば「角井峠」。由来は千数百年前にさかのぼる。百済寺が創建された頃、その周辺の田んぼの水を確保するため、本来、犬上側に流れる川の水を四角い溝を作って、愛東側に流した。「四角い用水の峠」が角井峠と呼ばれる由縁だ。角井の名は、昭和29年の合併前まで「角井村」の名前になっていたことからも、その用水がいかに大切だったかがわかる。
用水のことが井(ゆ)と呼ばれていたのは、古く古墳時代のことで、有名なものに愛知井というのがある。これは渡来人のエチハタなる人物が建設した用水路なのだが、その用水の名前が川の名前や、町の名前にまで発展している。とにかく、その水を守るために現百済寺甲地先に村ができた。やがてそれは戦国時代のお寺の城塞化によって西ヶ峰奥の院にまでつながっていく。
民俗学者の谷川健一氏は地名は日本人のアイデンティティといっているが、まさしくその通りだと思う。国の市町村合併で、古くから呼び親しまれた多くの地名が失われたと思うが、それは日本の文化の損失でもある。合併でつけられた地名には、縁起のよい名前、方角を表しただけの地名も多い。こういうものは、案外早くに忘れ去られていくのではないだろうか。ちなみに、大萩地区でも、地域の道に名前をつけて街づくりをしたことがある。東通りや西通りといった方角名が多かったが、未だ定着はしていない。その点、元の地名には恐ろしいものや、驚くようなものまであって、インパクトではとうてい方角など及びもしない。
先日、東北の震災後地を訪れて思ったが、後の人はあそこにいかなる名をつけるのだろう。道を走っていて目にした看板からは、仮の遺体置き場になった場所が近くにあることが伺えたし、流された小学校の跡地では、亡くなった子供たち、子供を亡くした親達のやりきれない無念さや悲しみが、いつまでも消えないような感覚に襲われた。単純な場所名だけでは割り切れないなにかがそこにはある。
かつて、土地に対する人々の思いが地名となって、そこに纏わるエピソードとともに何百年も語り継がれていく。今、茗荷村ができて、30年、新しい歴史が刻まれていく。そんな中で、ここで起こった出来事がいつの日か地名として残こり、後世にも伝えられていくことを切に願う。そして、この30年がやがて伝説となるよう、日々真剣に過ごしていきたいものである。

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