日本民族の二重構造について


最近の世の中の風潮を見ていると、どうも違和感がある。我々大工の世界が少なくとも2000年以上黙々と伝えてきたモノが、何か違う文化というか、支配勢力に切り捨てられ、違うモノにすり替えられようとしているのではないかと言う疑念である。日本の木造建築がたどってきた歴史の延長線上には、未来はないのだろうか。

先日、中世城郭研究の中井さんが、こんなことを言っていた。「山城というのは、その地区の象徴としてあり、常にそこに人が居たんではなくて、政治的な緊張状態が続くと、武士や、権力者がそこにこもる。そして戦いに敗れると出て行く。殺されるか、投降するか、別の城に逃げていくかである。しかし、周りにすんでいる百姓も一緒に移動するかというとそうではなく、多くの場合、百姓はそのままで、次の支配者に従う。」

つまり、先の戦争のように、国民が総動員で争うのではなくて、支配者層と、被支配者層がある程度分かれていて、戦うのは常に支配者層の武士や権力者で、農民はもう少しのんびりとしていたのではないか。ということだ。それがいつ頃からそうかというと、かなり古いのではないかと思う。

私の住むこの地域が、かつて愛知郡とよばれ、流れている川は愛知川という。この名前は、かつての支配者、依智秦氏という豪族から取ったと言われる。秦氏というのは中国から渡ってきた渡来人である。千七百、八百年ほど前のことだろうが、征服者の名をとらされたのか、それとも先住民がすべて秦氏に取って代わられたのかはわからないが、単純に征服させられたのなら、この名前は、今日まで残らないだろう。そこにも支配者と被支配者の二重構造があったのではないか。それは、単純な、奴隷と貴族の関係ではなくて、どこか、お互いの領分を尊重したような関係でなかったか。

それを、文字で物事をイメージする民族と、文字以外のモノでイメージする民族とに分けて考えたら、飛躍しすぎだろうか。そういった視点で現在の状況を考えると、少し説けてくるような気がしている。(続く)

 

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