日本民族の二重構造について2


 

職人のこだわり

職人のこだわり

 文字や文章で、物事をイメージする人と、それ以外のモノ、映像や形でとらえる人種。なぜそんな話になったかというと、職人が技術を習得する過程では、あまり、文字や言葉に頼らないと思うからだ。体で覚えるというのがそうである。ほとんど文盲であっても、大工は伝統技術を継承し、つないできたと思う。頭の中で、完成像をイメージすることが出来るから、いちいち説明がなくても、きちんと建物が建つのである。

千年以上も前に建った法隆寺の塔などでも、一つ一つの部品は(それぞれ大工が別々に造っているから)バラバラなのに最後には、4っつの隅が同じように収まっているという。それが、以前書いたフラシュバックというか、暗黙智というか同じ完成像が頭の中にあることの証明である。

ところが最近、建築基準法が改正されてから、状況が変わってきた。先に、図面と文章ありきなのである。役所に、細部まで細かい設定をした設計図書を提出し、しかも、それと、一字一句同じモノを造らねばならない。変更は許されないのである。設計者と同じモノがイメージできていればいいのだが、なかなかうまくいかないのは、職人世界と設計者との間に民族の隔たりがあるような気がしてならない。

まぁ、それは言い過ぎであるが、何から何まで法律という文字で規定し、縛り付けるのはどうかと思う。それが近代国家というなら、進化しているのか退化しているのかよくわからない。

こんな話がある。私の近所に住むテツと言うおじさんから聞いたのだが、彼は、かつて集団就職で自動車工場に勤めた。そのとき、彼の工場で扱う部品が、ほとんど輸入品で品番がアルファベットで書かれている。当然、彼は読めない。大学出の監督は品番で指示をする。毎日怒られるモノだから、彼は奮起して、何百ある部品をすべて、形で覚えたというのだ。重さ、色、形と、文字以外のすべてがインプットとされたわけである。そのうち、彼は部品を持っただけで、何かわかるようになったという。監督は一々品番を読み取って判別するから時間がかかる。時には、品番のラベルが間違っていることがあって、監督が指示したモノが合わない。何度やってもだめなので、テツさんが確かめたら、一瞬にわかったという。

同じような話はNASAの仕事も請け負う旋盤工「小関智弘」さんの著書「町工場の技術、鉄を削る」でも紹介されている。旋盤工は、削る鉄の成分を削った火花の色で見分けるというのだ。原料の鋼材の調合が間違っていても削りだした時点で間違いに気づくというのだ。職人の恐るべしである。

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