マニュアルについて


マニュアル(取扱説明書)この不思議なもの。今我々が、手にするモノほとんどの品物にこれは付く。いつからそうなったのだろう。昔はそんなモノなかったはずだ。日本にPL法(製造物責任法、puroduct liabilityの略)が出来たのが1995年7月のことである。多分そのころからだと思う木造建築が今のように変わり始めたのは。

それまでは、こう使うんだよと、人が直接教えていたように思う。

懇切丁寧な取扱説明書は、便利だけれど、何か違うなと思ったのは、地域の神社の神主をしたときだった。

我が地域では、昔から、氏子の中から、ほぼ順番に、一年ごとに神社の社守を請け負っていく制度がある。もちろん、今風に言うなら、ボランティアの役員と言うところだが、そんなドライなモノではなく、その一年間は、村の運不運も一緒に背負うようなところがあり、なかなかのプレッシャーである。マニュアルと言えば何日にお参りするという日付だけがあって、とにかく、日付通りに何十回となく神社に行って、村の安全を祈願するという一種の修行のようである。やることは、前任の神主が、直接次のモノに教えていくのだ。一年習って、一年本番があり、一年教える。と言う3年コースで引き継いでいく。

こんな面倒なことをやるより、事細かに書いたマニュアルを作って、ワープロで打って、本にして、あらかじめ配ってやれば、手間が省けるというモノだ。私の場合はそうしようと、早くからメモ書きを造っていた。

しかし、長い月日の中には、風邪を引いたり、熱があったり、都合の悪い日もあったりと、結構精神的に追いつめられたりする。それでも無理をおして、やっていると、何かしら、神懸かりな体験をすることがあった。居るはずのない神が間近にいるような感覚。そのとき、」はっと気が付いた。

これは、神の存在を知らしめる(錯覚をおこさしめるかもしれないが)ために造られた儀式というか、秘法やもしれぬ。と感じた。文字や文章で伝わらないモノがある。その日から、メモ書きを止めた。

人がやっていることを、まねして、同じように跡をたどる。何回も繰り返す内、同じ気持ちになるときがある。心が合わさるときだ。そのとき、一気に技術と心が伝わる。職人の親方と弟子が何百年繰り返してきた方法だ。

別にマニュアルを否定しているわけではない。文字や文章で記録したら、今絶滅してもいつでも復活出来ると、マニュアルだけででモノが伝わると過信している社会のあり方に危惧しているのである。

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