京都仏像巡りツアー


2008112701

門からいきなり本堂

門からいきなり本堂

 

現在も修理中

現在も修理中

 

教科書でおなじみ空也像

教科書でおなじみ空也像

 

平清盛性格悪そう

平清盛性格悪そう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妻の誘いで、京都仏像巡りツアーに参加しました。案内は、高月町観音の里歴史民俗資料館の学芸員の佐々木さん。とても人当たりの良い、ソフトな印象の方でした。多分地元ではファンも多いことでしょう。

最初に訪れたのは、六波羅蜜寺。なんか難しい字です。ここの本尊11面観音像が11年ぶりにご開帳され、見ることが出来ました。腰のあたりが、斜めにくびれて、なかなか色っぽい観音様です。ポーズが高月の渡岸寺の観音さんにも少し似ています。

観音様もさることながら、裏の宝物殿には、日本を代表する仏像が、安置されています。ガラス越しですが、触れるぐらいの近くで見ることが出来ました。教科書にも出てくる開祖の空也像と、平清盛像は、圧巻です。説明がいらないほど迫力があります。

同行したシステムエンジニアの長谷川さんは、小さい頃、この近くに住んで居られたそうで、そのころは、清盛像は外においてあり、さわり放題だったそうです。その所為か、像は真っ黒で、つるつるです。古びて美しくなると言うやつです。

この日も、大工さんが入っておられ、どこかを直していました。1000年もの間、残ってきたのは、こうして常々、修理され、大事にされてきたのでしょう。ほったらかしでは、こうはいきません。

六波羅蜜寺は、空也上人が開いた、庶民の寺です。昭和の修理の時創建当時の礎石の下からは何万個もの、泥人形が出てきたそうで、信仰の熱さがうかがい知れます。その庶民の心をつかみたかったのか、平安時代、平氏の一族はこの周辺に居を構え、周辺には公称5000件、実際でも3000件以上の館が建っていたそうです。

鎌倉時代には政権の公用執務室のような六波羅探題が置かれていました。まさしく政治の中心地であったのでしょう。

何故、ここにこんなにたくさんの鎌倉時代の仏像が存在するのでしょう。目をつむって想像を巡らせました。見えてきたのは人気のない探題の役人の姿。都の民衆の心をつかもうとした探題は、毎年のように仏像の新作を発表。開祖の空也上人から、平家物語の英雄平清盛、言わずとしれた弘法大師、はたまた、地蔵菩薩から、吉祥天女、閻魔大王まで、極めつけは作者の運慶、湛慶まで、驚くべきリアルさで造られています。(私見なのでよそでは言わんように) 

功を奏して、京の都が焼け野原になった応仁の乱でも奇跡的に残ります。信仰心の厚い民衆が守り抜いたのでしょう。

しかし明治なって、六波羅蜜寺は試練を受けます。廃仏毀釈です。門、庫裡、その他建物、ことごとく壊されます。境内も上地され、小学校や警察署が建ちます。かろうじて残ったのは本堂のみでした。だから、道路からいきなり本堂という有様です。

その後荒れ果てていた寺は、昭和41年やっと、大修理されます。だから明治からそれまでは、清盛像も、軒先に放置されていたというのも頷けます。(続く)

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